そのころの広島にとって晴れやかな光景ではなかったろうか。有力企業を中心に建設資金に充てる寄付金を募り、1955年3月の竣工式と同時に市へ寄付した「広島市公会堂」が開館した。場所は平和公園の西側、中区中島町。平成の時代に入り、公会堂を改築・改称した「広島国際会議場」が89年7月に開館。約1500人収容のフェニックスホールほか、大小会議室などを備え、数多く会議や音楽会などが開かれている。
公会堂が完成した年に財界グループ「二葉会」が発足。上原昭彦氏の著書「二葉会のあゆみ」に、公会堂に続く、二葉会の寄付行為のうち公的なものを主に掲げる(要約)
① 広島県庁建設資金(56年4月落成)
② 旧広島市民球場建設資金(57年7月落成)
③ 広島バスセンター建設(現在と同じ所にあった前バスセンター、57年7月完成)
④ 本願寺広島別院の再建協力(64年11月完成)
⑤ 旧広島空港ビル建設資金(現在の広島ヘリポート、61年9月開港)
⑥ 広島県立体育館建設資金(現在のグリーンアリーナの前の建物、62年6月落成)
⑦ 国鉄山陽本線の電化工事建設債引き受け(62年6月完成)
⑧ 県立体育館屋内プール建設資金(65年8月完成)
⑨ 広島民衆駅ビル建設資金(65年12月完成)
⑩ 広島県立美術館建設資金(現広島県立美術館の前身、68年9月落成)
⑪ 広島県立産業会館建設資金(70年10月開館)
などがある。
旧広島空港(西区観音新町)の発端について。二葉会の新年会で、56年度から実施される空港整備法を踏まえ、広島にも空港建設をという声が上がり、さっそく大原博夫知事に要望。一気に方向性が生まれている。予定地の既存建物移転が前提になったが、その費用約1億円ほか、空港ビルの建設費約9000万円のうち、8000万円を県と財界で折半し、残り1000万円を国が持って、ビル内に収容する運輸省の航空保安事務所に充てたという。広島の都市機能の充実に深く関与していたことを裏付ける。
50年発足した「広島野球倶楽部」は、55年12月に「広島カープ」に改組。専用球場もなく、資金難で球団運営は困窮を極めていた。そこで専用球場の約2万平方メートルの土地は市が基町の国有地を手当てし、建設費2億6607万円のうち、2億4399万円は二葉会を中心とする財界が拠出。こうして「広島市民球場」の1期が57年、2期が58年4月に完成。これを機に設けられた「広島市民球場運営委員会」の民間構成メンバーは、50年後にJR貨物ヤード跡地へ移転(現マツダスタジアム)するまでほぼ変更がなく、球場と二葉会の関係を何より物語る−と記している。
かつて竹下虎之助知事は、
「財界の方には是々非々で、大所高所からの意見を聞かせていただきたいのです」
広島の復興という大きな目的をほぼ達成したためか、二葉会から商工会議所などの経済団体へ舞台を移したころと重なり、竹下知事にとって一抹の物足りなさがあったのではなかろうか。